ぞうさん
絵本をほとんど読まずに育った私でさえ知っているこの歌だから、日本人ならみな知っていると言っても過言ではないだろうが、あえて歌詞をご紹介する。
我が家にあるCDで聞く限り、声質からすると子供と母親の掛け合いである。それに基づけば、子供がゾウを観察して「鼻が長い」と指摘し、子供の母親が「その通りである。そしてあのゾウの母親の鼻も長い」と、子供が知らない事実を教授しているというところだろうか(解釈1−1)。
しかし日本語において、特に子供相手に話す場合、「かあさん」とは話し相手の母親を指すという用法も一般的である。つまりこれが子供と母親の会話であれば、鼻が長いのは母親自身であり、ゾウに負けないくらいの鼻の長さを誇り、対抗しているという解釈も可能である(解釈1−2)。この親子は禅智内供の子孫だろうか。
ここまで、この歌における登場人物を人間の子供とその母親という仮定に基づいて論を進めてきたが、CDの声質に囚われず広く考えれば登場キャラクターは
- 人間の子供
- 人間1.の母親
- ゾウの子供
- ゾウ3.の母親
の可能性がある。そこから、冒頭の「ぞうさん ぞうさん」はゾウに対する呼びかけであり、「そうよ」と答えているのはゾウである可能性にようやく思い至った。そうすれば、「わたしだけじゃなくて、わたしの母さんも鼻が長いのよ」という、会話の流れとしては自然な解釈が可能だ(解釈1−3)。まぁいくらゾウが利口な動物であるといっても、言語の壁を超越しているという点には疑問が残るが、童謡であればそれくらいの無茶はするのかもしれない。そして、おそらくこれが正解なのだろう。なぜなら、2番がこう続くからである*1。
この歌詞においてまず問題になるのは、「が」の解釈である。目的格の「が」と考えれば、「ぞうさんはかあさんのことが好きだ」となるが、これを主格の「が」と取ると、「かあさんがぞうさんのことを好きだ」という解釈も不可能ではなくなる。つまり、子供が「あんなゾウのような動物のことを、いったい誰が好きになると言うんだ」と母親に聞き、母親がかばうように「あのね、かあさんみたいなひねくれ者が、ゾウのことを好きなのよ」と諭すというやりとりになる。しかし「ぞうさん」と好意を込めた呼び方をしながら、そのような疑問を発するのは不自然であるから、この解釈は成立しがたい。やはり、この「が」は目的格であると考えるべきである。
すると、1番に引き続き「かあさん」の解釈が問題になる。
解釈1−1あるいは1−2と同じくこれを人間の子供とその母親の会話だとすると、子は母に対し「あのゾウは誰のことが好きであるか」と尋ねている。「かあさん」とは母ゾウと考えることができるが、なぜ人間である母親がゾウの心の内を知っているのかという疑問が拭えない。母ゾウのことが好きだと決めつける裏には、どの家の子もまず母親のことが好きであるべきで、父親は二の次であると刷り込もうという意図すら窺える*2。むしろ「あのゾウもこの私のことが好きなのよ、ああ美しさって罪」と自己陶酔に陥っているほうがまだ自然だ。ただ、それは童謡の内容として不適切であり、まどみちお氏がそのようなことを意図しているとは思いたくない。
やはりこれは解釈1−3に引き続き、人間の子供とゾウの子供の会話であり、子ゾウは母親への思いを屈託なく打ち明けていると解釈すべきだろう。動物園なのか、サファリパークなのか、アフリカを訪れているのかは分からないが、ゾウと子供だけを登場させることで、子供がゾウに夢中になっていることを表す素晴らしい歌だ。
…今日この結論に至るまで、私は25年以上もかかってしまった。メルヘンな要素を持った人間を育成するには、お子様にはぜひ絵本を読んであげていただきたいと思う。