「やばい」

バスの中で、立命館大学の学生と思しき女の子がぺちゃくちゃと喋っていた。それ自体に文句をつけるつもりはあまりない。ただ「やばい」をいったい何度いえば気が済むのか?
数年前までと違い、「やばい」が指す内容が変わってきたらしいというのは知っているし、言葉は変化するものなのでそれ自体が悪いことだとは全く思わない。しかし、ものすごく美味しかったり、素晴らしく美しかったり、大変にかっこよかったり、とどうやら「心を大きく動かされた」ときに発するらしいこの「やばい」は、言語表現として一段浅いように感じられる。大脳新皮質を通さず、旧皮質からそのまま発せられているような感じだ。教科書文法の用語を用いるなら、形容詞ではなく感動詞、「うわぁ〜」と言っているのと大差ない。
また最近「空気が読めない」という言葉がはやっているようだが、逆に言えば空気を読まなければならないのは言語による意思の伝達が稚拙だからに過ぎない。意思を、状況を、考えを言葉で表現できないから、相手に「空気を読む」ことを求めるわけである。もちろん、言語外表現の価値を低く見積もっているわけではない。しかし、それぞれが担う割合が変化しているように思うのである。
言葉をうまく扱えない人が増えている一方で、主に文字を媒介とし、相手の表情や口調が伝わらないインターネットやメールがコミュニケーションの主流になりつつある。絵文字や顔文字はそれを補うツールとして有用な、現代において新たに生まれた象形文字ともいえ、絶えず時代に合った文化を創造し続けているとも言えるかも知れないが、「絵文字」とは文字の中でもっとも原始的な部類である。原始的な絵文字に頼らざるを得ないほどに人類の能力が退化してしまった、あるいはこれまで紡がれてきた知の糸が切れてしまったと言ったほうがいいような気がしてきた。これはなんとも「やばい」状況である。