子供の名前について

最近の子供の名前についての言説はいろいろと見たことがあるけれど、多くは「暴走族のよう」「程度が低い」と切って捨てるだけだったが、今日はちょっと興味深い記事があったので、抜粋して紹介しますわ。全文はこちら、Business Media 誠より。

ネーミングで、とりかえしのつかない一歩を踏み出さないために

 「とりかえしつかないことの第一歩 名付ければその名になるおまえ」と詠(よ)んだのは俵万智さんである。社会全体に、とりかえしのつかない第一歩を踏み出したようなネーミングが氾濫(はんらん)していると感じているのは、どうも私だけではないようだ。
 先週の『週刊文春』4月23日号には、「先生が名前を呼べない子供たち」という特集が組まれていた。最近の女の子も男の子も、読めない名前が増えてきた。その名付けの変化は、ここ10年劇的だと言うのだ。
(中略)
 週刊文春の記事には、この状況を危惧する日本司法支援センターの加藤卓也弁護士のコメントが記載されている。「名前は、その人物が社会で認識されるための符牒です。他人が読めない名前には、社会性がありません」と。
(中略)

名前は、社会で認識されるための符牒。そうそう。
日本語の名詞は、すべて日本社会に存在した、あるいは存在すると思われていた事物だ。「鬼」や「神」は実在しない…という見方もあるが、この言葉が生まれた当時には、目には見えないけれども存在するのだと考えられていた。人間がその存在を意識した瞬間から、名前が付く。物理学の分野でも、新しい粒子が発見されたり、理論的に予測された時には必ず命名される。その粒子はずっと以前から存在しているにもかかわらず、人間が認識するまでは名前がない。名前がつけられることで、人間世界の一員となるわけである。
また、言葉というのはまず音声ありきである。文字のない言語はあるが、音のない言語はない*1ように、発音できないことには意味をなさない。知らない文字で書かれた名前を、日本人はカタカナなどを使って読みやすくしてしまう。実際の正確な発音とは違っていても、自分たちに発音できるような音に変換して、その名を認識する。そうしてやっと仲間入りができる。

 また盛岡市20日開かれた児童虐待問題特別研修会で、大阪大学の西沢哲・助教授(大学院人間科学研究科)が保健師ら約百三十人を前に講演し、ユニークな持論を披露した。
 西沢助教授は、セラピストとしての豊富な実務経験を基に講演した。その中で、西沢助教授は「凝った名前には、子どもを支配したいという気持ちが出ている」と指摘し、子育てがうまくいかないと、怒りが子どもに向けられがちな背景を説明。さらに「凝った名前に横やりを入れる人が周囲におらず、虐待のストッパー(歯止め役)がいないことの現れ」などと実例を交えながら説明した。
(後略)

凝った名前と虐待の関係については、多少強引な気もするが、それでも「自分ら夫婦のやりたいようにやる」ことの表れと言われれば何となく腑に落ちる。周りに止める人がいない、周りに言われても止めない。自分らが読めればいい、他人から読んでもらえないことを気にしない。そういう気配りのなさが名前に表れているような気がする。
うちに子供ができたらなんという名前にしようか。前にも言ったが、アキ子と勉だけはつけるわけにはいかない。その名はすでに別の方の名として社会的認知度が極めて高く、良いか悪いかは擱くとしても影響が大きそうだからだ。ただ、命かけてボールに食らいつけとの願いを込めた名前の出番は、あるかもしれない。

*1:人工的に作ったものは除く