脈絡は特にない

学生時代、私はカテキョでがっぽり稼いでいた。主に教えていたのは中学受験を控えた小学生だったが、あの仕事は学歴社会の寄生虫みたいなもんで、世に教育ママのある限り滅亡しない職種であろう。そして私の経験上、教育ママの多くは以下のような考え方をお持ちである。

  1. 直近の試験の点数がよければそれでよい
  2. 直近の受験に受かればそれでよい
  3. 少しでも偏差値の高い学校に入って欲しい

自分の子供に「高学歴」の称号を与えたいという希望は理解できるのだが、その希望とは全く逆の考えを持っていると言わざるを得ないのである。まず、通常「高学歴」か否かは大学のレベルで判断されるものであり、ハイレベルな中学や高校に入ったからと言ってそこで終わりではない。また中学や高校のレベルに比して低いレベルの大学に入ってしまった場合、その大学の水準が多少高くても、相対的に落胆を禁じ得ないであろう。
しかし世の教育ママは、受験直前に必死のペースで追い込みをかけ、合格可能性が20%〜40%と判定されるような学校に何とか滑り込んでくれたら…と望むのである。ハイレベルな中学校に入れば、ハイレベルな教育を受け、ハイレベルな高校へ進めると考えているようである。
しかし、必死のペースで滑り込んだということは、その学校の授業あるいは同級生に3年間付いていくためにやはり必死のペースが必要となるということを意味する。受験直前のペースを3年間続けられる人間などいるわけもなく、脱落の危険は極めて高い。脱落せずに済んだとしたら、周囲の人間がもっと大きな脱落をしているだけの話である。
そして脱落を防ぐため、あるいは脱落していると数字に告げられることを防ぐために教育ママはまた家庭教師を雇い、テスト前になったら頑張らせるのであるが、一夜漬けの成果は長期記憶として定着しない。これは科学的にも経験的にも実証されている事実であり、一夜漬けをしてもしなくても、テスト後の頭の中身は大して変わらないのである。にもかかわらず、定期テストの点数だけは記録として残り、頭の中身を反映しない虚像が映し出されるのである。こうして生徒は自らの実力を計る機会を奪われ続け、真に実力が試される時期が来ると壁にぶち当たるのである。
「高学歴」獲得のクライマックス、大学受験に失敗する生徒の出来上がりだ。
だから私は受験直前、必ずこう言って志望校を変えさせた。「ぎりぎりで受かるかも知れませんが、ぎりぎりで受かったらこの先ずっとぎりぎりですよ」と。大抵の教育ママは、「受験が終わったら遊んでもいいよ」といったニンジンをぶら下げている。しかし遊んだ途端に学年最下位へまっしぐらである。部活もできず、遊びにも行けず、ママの嘘つき…と思い続ける学生生活には意味がない。ある程度ゆとりを持って、かつ学年の真ん中あるいは少し上にいられるレベルの学校がその子にちょうど合っているのだ。日常にゆとりがあれば、ここ一番にがんばれる。長い目で見ればよほど実りあるものとなるだろう。
…さて、以上はカテキョを生業としていた時代の持論であり、当時は何かにつけて披瀝していたのだが、なぜこんなことを思い出したのか?
実はワールドカップでの日本代表の惨敗を目にしたからである。
海外移籍という「キャリア」を身につけたのはいいが、出場機会に恵まれなかったり、出場しても結果を残せなかったりする選手*1が、果たして役に立つのだろうか?
欧州のリーグがJリーグに比べてレベルが高いのは間違いないが、その経験を生かせているのか、否、そもそも何を経験しているのか?「鶏口となるも牛後となるなかれ」とは言い古された言葉だが、やはり牛の尻ではよろしくない。鶏の口では小さすぎるとも思うが、虎の前足あたりなら牛を倒せるかも知れないな、と思うわけである。
さて今日はフランスvsポルトガル、牛の角同士の戦いだ。明朝ハイライトでじっくり楽しむことにしよう。

*1:野球で言えば中村ノリとか松井稼頭央とか