あの時から16年

宮崎勤被告の上告が棄却され、死刑がほぼ確定した。今回の事件、事実関係は争点とならず、専ら「責任能力」の面が争われた。
この手の事件ではとにかく弁護側が「心神耗弱」だの「精神疾患」だのという言葉を持ち出し、精神鑑定をしろと言ってくる。それが認められれば、責任能力がない、善悪の判断ができない状態だということで、刑法の規定により罰せられることがなくなるからであるが…どーも腑に落ちない。
まず1点。責任能力がない人はなぜ無罪?これ、よく分からない。善悪の判断がつこうがつくまいが、人を殺したという事実には変わりはないはずだ。それどころか、そんな無差別に殺されるよりは怨恨による犯行の方が、まだマシ…などというのはちょっと言葉が過ぎるかも知れないが、誰がどう考えても殺されるいわれなんてない人が殺される事件について、責任能力云々が問われ、無罪になるかも知れないというのは納得しがたいわけである。善悪の判断がつかないという状態によって、より残虐な、より猟奇的な犯罪につながったのではないか、という可能性があるのに、それを罰することができないのはなぜ?
2点目。人を殺す時に正常な心理状態でいる人なんているのだろうか?考えようによっては、殺人を犯した人はみな追いつめられ、倒錯した心理状態なのではないか?殺すしかない、あるいは殺したい、どちらも正常とは言えないだろう。更に言えば、きわめて冷静に、私は○○という目的を達するために誰それが邪魔だったので、これこれこのようにして殺害しました、と平然と述べたとすれば、それもそれで異常と言えるのではないか。
3点目。何をもって異常と判断し、何をもって正常とするのか?精神鑑定は本当にそれを見抜けるのか?適当に異常なセリフを並べたり、何も聞こえないふりをしていたり、そういった「芝居」を完全に排除できるのだろうか。テスト問題の作り方を知っている者がテストで高得点を取るように、精神鑑定の手法を知り尽くした人間ならば、それをごまかす抜け道も造り出せるのではないか?あと、精神に異常を抱え続けている人ならともかく、犯行当時は異常な心理状態であったなんてどうやって立証するのだ?
そんなこんなで、残虐あるいは猟奇的な犯罪の裁判において弁護側が「心神耗弱」を主張するのが大ッ嫌いな私でした。